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無罪判決の紹介
【裁判例】 被告人らの自白に客観的状況と符合しないものがあるのに,自白のとおりに被告人らを殺人や逮捕監禁罪により有罪と認めた原判決を破棄した事例−山口組組長襲撃犯(鳴海清)殺害事件 最高裁判所昭和63年1月29日
山口組の組長を襲撃した実行犯鳴海清が神戸の六甲山中で殺害されているのが発見され,その犯人として被告人3名(衣笠,田中,秋丸)が逮捕起訴されました。殺害を裏付けるのは,被告人3名の捜査段階の自白があるのみでしたが,その信用性が争点になりました。衣笠というのは,暴力団幹部であり(若頭),田中(若頭補佐),秋丸(若衆)の序列になります。 1 田中の自白の信用性 田中は,衣笠が鳴海を殺害するところを直接見ていないのですが,捜査段階において,衣笠が殺害したと推認できるような自白をしていました。 しかし,その供述の内容が,裁判所の実験結果などから客観的に合致しているのか,この点に関する,一審,控訴審,最高裁の評価が面白いところです。 (1) 当時の現場の状況から犯行が可能だったか 田中の自白では,殺害の実行犯衣笠は,午前2時近くの夜中に車のトランクに鳴海を押し込んで山中まで運転していき,トランクから降ろした鳴海を道路脇の藪の中に投げ込んだ後,自ら藪の中に飛び込んで行き,約20分後に息を切らせながら戻って来たとありました。 @一審は,死体発見現場は県道上の被告人田中の指示する地点から約150メートルの距離にあり,その間は,終始30ないし45度の急な傾斜面であったり,所によつては樹木、熊笹、雑草が繁茂している状況にあり、裁判所の検証の際の模擬人体を用いての実験によると,日中においても右往復には19分27秒を要しており,夜間においては現場が暗く同じ実験を行うのは危険であるとされているこ となどから,衣笠が夜間照明器具を用いずに約20分間で往復することは極めて困難だとしています。 A控訴審は,田中自白にいう「約20分」という時間はある程度の誤差を伴うものとして理解すべきであり,往復経路の嶮岨さや,本件犯行時と裁判所実験時との条件の差異を考慮しても,約20分での往復は可能であると判断しました。 B最高裁は,被告人衣笠がたった一人で、田中自白から想定される150メートルもの嶮岨な深夜暗闇の山中を,照明器具や運搬道具も用いず,しかも背広に革靴という普通の服装で,体重約70キログラムの鳴海を運搬することは,不可能とまではいえないとしても著しく困難な作業であることは明らかというべきだとしました。 また、両手、両足を手拭及びガムテープで緊縛した状態の人体は(手は後手)そのままではかなり運びにくいことも想像にかたくないところであるが,死体のガムテープ等に手で握つたと思われる部分は見当たらない。 また,田中自白によると、被告人衣笠は六甲山中の県道上で迷うことなく藪の中に飛び込んだ地点のすぐ近くに停車したことになっていました。 しかし,この田中自白が真実であるとすると、被告人衣笠は予め入念な下見等をしていたことになるが(検察官も第一審論告でそのように主張していました。)、そうだとすると,照明器具,運搬道具及び服装等の準備をしていないというのはおかしいとしました。 また,そもそも被告人衣笠ほどの幹部が事前の計画に基づきこのような危険で骨の折れる作業を一人で行うということ自体が極めて不自然と思われるとしました。 のみならず、田中自白においては、被告人衣笠が被告人田中に鳴海の運搬等の実行を命ずることなく、被告人衣笠が危険な作業をしている間被告人田中はただ車内で待つていただけであるとなつているが、そのような役割分担自体が不自然というほかないと指摘しています。 (2) 衣笠の犯行後の状況について @ 一審は,田中が「衣笠は藪の中から県道上に戻って来て車の運転席に座り、約2,3分ないし数分の間,息をはずませ,ぐつたりしていたが,その後エンジンをかけて車を発進させた」と供述していることについて,裁判所の実験の際の実験者の極度の疲労状況のほか,運転のできる田中がそばにおり同人に運転を代わって貰うのに何ら支障もなかつたと考えられることなどから,田中のそのような供述(自白)に疑問を呈しています。 A一方,控訴審は,被告人衣笠の疲労状況と裁判所の実験結果とは、実によく合致しているとしました。 また、田中自白によると、衣笠が田中に運移を交代してもらわなかったのは,その際に田中は助手席に座っていて行き先について全く知らされていなかったことや,自分の方から運転の交替を申し出なかつたのは,鳴海を殺害したらしい衣笠に対して反感を覚えていたためであるから不自然ではないとしました。 B 最高裁は,田中は気が進まないながらも衣笠の命令によって鳴海に対する逮捕監禁行為へ加担したのであり,衣笠に対する反感があつたといつても,その地位の上下関係からその命令には従わざるをえなかつたはずであるから,疲労しているはずの衣笠が田中に運転を命じなかったとされていることは,やや不自然というべきとしています。 (3) 鳴海の死体の損傷状況と合致しているか @ 一審は,田中自白によると、衣笠は一人で鳴海を死体発見現場まで運搬し,また運搬のための道具を用いたことは窺われないから,付近の地形等を考慮すると,衣笠による鳴海の運搬方法としては身体を斜面に沿って滑らせたり,引きずったりするなどの態様しか想定しえないが,裁判所の実験結果によると模擬人体に着用させた着衣には多数の損傷が生じているのに,鳴海の死体の着衣には刃物によるものと考えられるもののほかには目立つた損傷はなく,田中自白には客観的状況に符合しない不合理な部分があるといわざるをえないとしました。 A 控訴審は,裁判所の実験に用いた模擬人体の着衣に生じた損傷と鳴海の死体の着衣に存した損傷との間にかなり顕著な相違はあると認めつつ,模擬人体の場合は、パジャマの上衣とズボンとがガムテープによつてしつかりと繋がれ、上衣がめくれ上がつたりズボンがずれたりしていないのに対し、死体発見時の鳴海のパジャマは、上衣はボタンがはずれたりちぎれたりして,両肩部がずり落ち,裾がめくれ上がるなどし、ズボンは膝から足元付近にずり落ちており、鳴海の着衣には損傷が生じにくかつたということも十分考えられるとしました。 また,鳴海の死体に巻かれていたガムテープには,山肌で擦過したために生じたと思われる損傷が明瞭に存するのであるから,衣笠が鳴海を引きずり降ろすなどしたことが十分推認されるとしました。 B 最高裁は,実験との条件の違いなどを検討しても,衣笠が田中自白等から想定されるような運搬方法をとったにしては,鳴海の死体の着衣及びガムテープの損傷や死体自体の損傷は、軽微に過ぎるように思われるとしました。 2 また,最高裁は,弁護人らが第一審以来強調しているにもかかわらず,一、二審判決とも特に論点として取り上げて判断を示していない鳴海の下前歯四本の欠如の点について,重要な論点として取り上げています。 (1)発見当時の鳴海の死体の状況は次のようなものでした。 ・死体の頭部及び顔面には幅5センチメートルのガムテープが幾重にも巻かれており,頭頂部及び鼻腔部の周辺が露出しているにすぎず,口の上にも幾重にも巻き付けられていたが,下顎歯の切歯4本が欠如していた。 ・この下前歯四本の欠如については、死体解剖をした医師は,死後に腐敗によつて脱落した可能性が高いが,生前の脱落ではないとも断定はできないと述べるにとどまっている。 ・捜査官証言中には、下前歯4本は野犬が食いちぎつたのではないかとか,衣笠が山中を運搬中岩などに当たつた衝撃で脱落したのを,鳴海がガムテープの隙間から吐き出したのではないかなどという説明がある しかし,最高裁は次のように述べて「鳴海は殆ど抵抗をしないまま被告人らにより逮捕監禁されたとされた」という田中,秋丸の自白の信用性を否定しました。 ・野犬が口の上に巻かれているガムテープをそのままにして下前歯4本だけを食いちぎることができるわけがないと ・衣笠が山中を運搬中岩などに当たつた衝撃で脱落したのを,鳴海がガムテープの隙間から吐き出したのではないかという説明については,上前歯及び歯茎に何らの損傷もないことと整合しないし,ガムテープは口から物を吐き出せるような隙間がないようにしつかり巻かれているのであり,説明として無理がある ・下前歯4本の欠落は,とにかくその口にガムテープが巻き付けられる前に起こったものではないかとの疑いは否定できない 3 なお,本件では一審は田中らの自白の信用性について疑いをさしはさんでいるものの,山口組組長襲撃に関与した鳴海を匿っていた衣笠らが,その後鳴海が殺害された時点でもこれに関わっていた蓋然性は強いと言わなければならないとして,衣笠について殺人罪などを認めたのですが,最高裁による破棄差戻しを受けて,殺人や逮捕監禁(鳴海をトランクに押し込んだ行為)についての自白はすべて信用できないとして無罪となり,犯人蔵匿罪についてのみ有罪とされました。 【掲載誌】 最高裁判所刑事判例集42巻1号38頁 最高裁判所裁判集刑事248号29頁 裁判所時報977号94頁 判例タイムズ668号62頁 判例時報1277号54頁
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